宗門は僧俗ともに禅の安心を求める同心同行であり、開山相双大師の「請うその本を務めよ」の御遺誡と開基花園法皇の「報恩謝徳」の聖旨を体して仏法興隆を実践する教団であります。
当寺は、元安倍郡大和田新田(大木郷)にありましたのを永禄五年(1562年)、当時本山妙心寺の住職であった月航玄津禅師によって、この地に移されました。
禅師は同年四月松源寺を創建し、開山となられましたが、その後永禄七年(1564年)に再度妙心寺の住職となられ、また、天正十年には三度妙心寺の住職となられました。
しかしながら天正十四年(1586年)七月十一日には九十四余歳にて遷化され、後に後陽成帝より普濟英宗禅師の徽号を賜りました。
爾後、当寺は二十三代現住職に至る実に四百五十年近くの長き歴史を有しておりますが、明治五年七月、火災によって本堂、庫裡共に焼失し詳細は明らかではありません。
松源寺の墓地の一番高いところに小野家の墓石があります。
一つが源義経と浄瑠璃姫の悲恋を描く「浄瑠璃十二段草紙」の作者と言われている小野於通の墓石があります。法名は「知雲宗才大姉」
もう一つが小野於通の息子だとされる小野高寛の墓で、徳川家康と秀忠に仕えた旗本です。法名は「秀山玄哲大居士」
松源寺の門は、徳川家16代の徳川家達公住居の通用門であり,明治時代にこちらに移築されたものです。旧家達公住居の正門は静岡市立高校の校庭に移築され「田安門」と呼ばれ知られているが、松源寺の門が旧家達公住居の通用門であったことはあまり知られておりません。
尚、山門の看板については臨済寺住職の阿部宗徹氏に当寺総代の松田松男氏が依頼して、新住職入寺を記念して書いていただきました。
松源寺の墓地入口近くにある地蔵堂には下記の仏様が安置されており、地域の皆様をお守りしておられます。
また、ここに安置されてある子安地蔵菩薩は駿河一国百地蔵の53番札所霊場御本尊として、千手千眼観世音菩薩は静岡新西国三十三ヶ所観音霊場の19番札所霊場御本尊として制定されております。
子安地蔵菩薩・魔除観世音菩薩・千手千眼観世音菩薩・大岩不動明王・弘法大師像